道はいつの時代でも果てしなく続いています。陸の道であったり、海の道であったり、今も昔も変わることなく街の盛衰を刻み続けています。
ただ、現代の道はスピード優先の道路、生活や風景の匂いはかぎにくく、歩いて楽しむということが徐々に薄れています。
その点、江戸時代の「街道」には今も濃厚な匂いが漂っています。たとえば昔をしのぶ風景として、本陣跡、白壁の土蔵、家並み、えびす像、道しるべなど現代も数多く残されています。
小倉から長崎に至る「長崎街道」は、九州で最もにぎわった街道といわれています。江戸時代の鎖国政策の中で、陸路は唯一の外国貿易品の国内流通路でした。
また、長崎奉行や参勤交代の大名が通る要路でもあったわけですね。
一時期街道沿線の各地で、「歩こう会」みたいなものがはやり、盛り上がりを見せていましたが、基本的には愛好家の域にとどまり、観光としての広がりに欠けていたような気がします。
最近になって「街おこし」と「街道」を結び付け、歴史とロマンをスローガンに各地で人気が出て、埼玉県川越市などは大勢の観光客を呼び込んでいます。
現代の観光資源の行き詰まりから、未来的な発想とは裏腹に、過去を新たに呼び起こす観光産業がにわかに脚光を浴びているのも確かですよね。
今回はこの「長崎街道」の宿場町、また、起点となる小倉城下そして、筑前最大の宿場町として栄えた黒崎宿、最後に遠賀川のほとりに栄えた木屋瀬宿を限られた時間で歩いてみました。
小倉城下の再生、常盤橋から始まる長崎街道

小倉城
百万都市と言われた北九州市、その中心でもある小倉(こくら)、1990年代から始まった「北九州ルネサンス構想」はほぼ完成し、小倉駅を始め紫川沿いも大きく変貌しました。
駅ビルを地上14階の高層ビルに建て替え、駅の中までモノレールも乗り入れていて、また、反対側の新幹線口も大きく変わり、国道199号線を挟んで空中回廊でAIMビル(国際総合流通センター)を結び、施工当時有名になった歩く歩道も設置されています。

小倉駅
近年では、AIMビルから海岸まで伸びるタコマ通りを5分ほど歩くと、J2ギラヴァンツ北九州の本拠地でもある「ミクニワールドスタジアム」もあり、昔は駅の裏口でしかなく、空き地と工場や倉庫が立ち並ぶ姿だった頃とは、見違えるほど変わりました。
九州の中心として膨張を続ける博多の街、昔からライバル意識が強よかったこともありますが、工業都市の衰退、人口の減少が大きく明暗を分けてしまいました。
常盤橋から始まる「長崎街道」

紫川に復元された常盤橋
さて、小倉駅から西へ10分ほど歩いて行くと小倉の中心部を流れる「紫川」が見えてきます。この川に平成7年、大きな木の橋がかかりました。
それが長崎街道の起点だった「常盤橋」、江戸時代の橋を再現したといいます。
橋のたもとから小倉城が望め、川岸には下関との連絡でにぎわった船着き場跡があります。江戸でいえば日本橋とはいかないしても街道起点として栄えた小倉にふさわしい橋ですよね。
今は本当にきれいな川になっていますが、ひと昔前まではただのどぶ川でした。開発する予知のないぐらい汚く、悪臭も漂っていました。
産業の街として栄えた北九州市では「環境」という言葉の発想は無に等しいぐらいひどく、洞海湾をはじめとして、各川の汚染もあの頃は限界に達していたでしょう。

常盤橋
また、産業発展の中核の街として栄えた小倉は歴史とは無縁の世界が広がっていたことは確かですね。
幕末に変革の標的となった小倉城下

小倉城天守閣
歴史の中で、この小倉はいくつかの変革を強いられています。江戸時代初期に小倉城を築いた細川氏が熊本に移封され、代わって徳川譜代大名の小笠原氏が入城、黒田・鍋島・島津など外様の有力大名に、九州の喉元でにらみを利かす幕府の軍事拠点となったわけです。
その小笠原十五万石の城下町も、幕末の「小倉戦争」で廃墟同然の町と化します。
第二次長州征伐の際、高杉晋作率いる奇兵隊の逆襲で小笠原氏は城を捨て、城下に火を放ちました。
藩政時代の城下町小倉の歴史は人もろとも途切れてしまい、廃墟同然の町となりましたが、その町を復興させたのは外からやってきた商人たちでした。

複合商業施設「リバーウォーク北九州」
さて、常盤橋を離れ紫川沿いを小倉城へと向かいました。
交差点の向こうには複合商業施設「リバーウォーク北九州」があり、地下2階地上15階の複合ビルです。
平成15年開業で各ゾーンが独立した建物群の集合体のような外観になっており、それぞれの建物に用いられている色は、日本の伝統的色彩美の融合を表し、「茶色」は大地、「黒」は日本瓦、「白」は漆喰壁、「赤」は漆、「黄色」は収穫前の稲穂を表現したものといわれています。

リバーウォーク北九州内のクリスマスツリー
リバーウォーク北九州1階はエントランスホールようなつくりになっていて、小倉城へと通り抜けもできます。
今回訪れたのは11月下旬、早くもクリスマス準備が進んでおり、1階の噴水施設には、この時期だけ設置される巨大なクリスマスツリーが輝きを放っていました。

小倉城内入り口
リバーウォーク北九州を通り抜けるとすぐに小倉城の堀が姿を現します。
目の前に天守閣も見え、堀沿いの石畳みの広い通路を北九州市役所方面へと歩いて行くと、右手に小倉祇園で有名な「八坂神社」の鳥居が姿を現します。
200mぐらい歩くと大手門広場に出ていき、そこから場内へと入っていき、石垣に囲まれた城路を上り詰めると再び天守閣が姿を現します。

小倉城内
もう何十年も前になりますが、ここに小さな遊園地があったことを記憶しています。確かジェットコースターもあったはずです。
もう40年以上も前の記憶なのであいまいですが、当時は小倉の中心地に遊園地があったことで人気があり、休日には多くの人々でにぎわっていたと記憶していますね。
現在の場内は遊戯施設等は一切なく、木立がお生い茂る都会の中の公園になっています。

宮本武蔵・佐々木小次郎のモニュメント
また、場内には「松本清張記念館」・「旧陸軍第十二師団司令部正門跡」・「宮本武蔵と佐々木小次郎のモニュメント」等が置かれ、静かな時の流れを感じさせる人々の憩いの公園になっています。
小倉城の天守閣は展示資料館となっており、有料ですが最上階まで上ると小倉の町が一望できます。
●小倉城 基本情報
住所 北九州市小倉北区城内2-1
TEL 093-561-1210
営業時間 4月~10月 9:00~18:00 11月~3月 9:00~17:00
入城料金 大人350円 中学生200円 小学生100円
小倉城が現在地に城を最初に築いたのは、戦国時代の毛利氏とされています。今の遺構に完成させたのは関ケ原の合戦(1600)後、40万石の大名として入国した細川忠興氏、夫人は細川ガラシャで有名ですよね。
細川氏は1632年に熊本に移され、小笠原忠真(たださね)が明石から入城しました。
その当時5層の天守閣はすでに焼失していましたが、幕末の小倉戦争で場内はすべて焼けてしまい、現在の天守閣は昭和34年に再建したものです。
また、明治になり商工業の町へと変貌していく小倉の姿は、文学でも格好の題材となっています。
明治の文豪「森鷗外」、小倉に軍医として赴任中、城下町の風情を「小倉日記」に書き記し、昭和の文豪「松本清張」もここから旅立ちました。
しかし、小倉のイメージを決定づけた作品として挙げるのであれば、何といっても「無法松」でしょう。
岩下俊作が書いた「無法松の一生(高島松五郎伝)」、戦前から何度も映画化され、無法松が打ち鳴らす「小倉祇園太鼓」も一躍有名になりました。
岩下俊作は詩人でしたが、小説を書くきっかけとなったとは「火野葦平」と言われています。火野葦平は戦時中に芥川賞を受賞し「麦と兵隊」で流行作家となり、岩下氏もその刺激を受けたのでしょう。
正確には小倉ではなく若松区を中心とした小説ですが、「無法松」と同様に北九州の風情を位置付けしただけではなく、軍隊や港湾、そしてにぎわう町の様子が、同様に描かれていて、このことが小倉のイメージとして大きく発展したのだと感じています。
小倉イルミネーションイベント

紫川沿いのイルミネーションイベント
さて最後に、今年も例年どおりイルミネーションイベントが開催されています。期間は2020年10月30日~2021年1月11日までです。
小倉駅周辺と紫川周辺の19ヶ所で、すばらしいイルミネーションが輝いています。是非一度見に来てくださいね。
筑前六宿で一番栄えた宿場町「黒崎宿」、幕末の秘密基地?

黒崎駅前国道3号線
小倉から黒崎までの直線距離は約10kmぐらいですが、車で走ると40分以上はかかってしまいます。車での距離は約15kmぐらいですね。
国道3号線をメインの道路として繋がれていますが、交通量も多く、市街地を走ることもあり信号で渋滞も発生します。
これは現代社会の常ですが、北九州市内は昔から道路が複雑で他県から来た方から、走りにくい街として有名でした。
JRで行くと各駅停車でも、小倉を出て西小倉、九州工大前、戸畑、枝光、スペースワールド、八幡、そして黒崎に至ります。
所要時間は約15分程度、車で走るよりはるかに速いですよね。
長崎街道は小倉城の横を通り、到津方面から八幡東区に入り、現在の国道3号線付近を黒崎宿へと延びていました。
小倉から黒崎に至る間は険しい道はほとんどなく、大きな村が点在する地域を通り、八幡東区では黒崎宿に至るまでは漁村が広がっていたと聞いています。多分この辺が旧寒村と八幡村でした。
現在の北九州市八幡西区黒崎といえば、大きな工場群が立ち並ぶ印象が強い街ですが、そのためかこの街に江戸時代から明治維新に関する史跡があるとはだれもが考えもしないでしょう。
しかし、江戸時代には長崎街道「黒崎宿」として、重要な宿場町でした。長崎出島にいたオランダ人も江戸参府をするために道中に必ず宿をとった宿場町、また薩摩街道と合流した長崎街道は、城下町小倉に入る前の休息の場でもあったわけです。
また、黒崎宿は唐津街道との分岐点にあたり、現在の佐賀県鳥栖市あたりで薩摩街道と合流した長崎街道はこの黒崎宿で唐津街道と合流していたため、筑前最大の宿場町として幕末まで大きく栄えました。
藩政時代の黒崎は筑前小倉藩との境界線に位置する筑前黒田藩の前線基地であり、関所の警備が最も無厳しいことで知られています。
黒田藩がこの黒崎と若松区に城を築いたのも、外様大名の取り潰しを狙う小倉藩(幕府)の警戒心だったのかもしれません。
長崎街道「黒崎宿」の残照、曲里の松並木

黒崎駅と隣接する複合商業施設(八幡西区役所)
さて、黒崎駅を降り立つと、歴史とは縁のない工場群が駅の裏側に果てしなく広がっています。洞海湾沿いに広がる北九州工業地帯の終着点みたいなところがあって、目に映る景色は、今でも工業の街の印象が強い場所てすね。
近年、歴史的背景から長崎街道の観光地が見直され、いままで無縁とも思われていた黒崎地区が徐々にクローズアップされつつあります。
駅舎を出て山手を見上げると絶景スポットで有名な「皿倉山」がそびえています。2018年には「日本新三大夜景」にも選ばれて、長崎、札幌、に次いで3位に入り、多くの観光客を呼び込みました。
まずは「長崎街道」の残景を求めて、駅前から一直線に伸びるふれあい通りを山手方面へと歩いて行きます。

黒崎宿西溝口跡の石碑(ふれあい通り)
黒崎の中心街を300mぐらい歩くと道路の左側に高級料理店の「はつしろ」があり、その信号を渡ると歩道沿いに「黒崎宿西溝口跡」の石碑が立っています。
残念ながらそこから延びる道路には当時を忍ばせる建物や風景は残っていません。
それからさらに100mぐらい歩くと市道山手通りと交差する「岸の浦二丁目」の交差点を右に曲がり、200mぐらい歩くと「曲里の松並木」入り口があります。

曲里の松並木入り口
ここが約600mぐらいの区間で続く黒崎に残された唯一の「長崎街道」の残照ですね。
入り口を入り石畳みの階段を上っていくと、両側を松の木で覆った江戸時代の街道が姿を現します。

曲里の松並木「長崎街道」
気持ちは江戸時代にタイムスリップですね。宿場町を離れるとこういう風景が街道筋に広がっていたのか、と実感がわいてきますね。
この松並木は昭和の時代に整備されたものですが、長崎街道の松並木として唯一残されていたものを整備しています。約600本あるそうです。
だからこそここが黒崎宿を出て、木屋瀬宿へ向かう本物の「長崎街道」なんですね。
入り口から入り約300mぐらい歩くと右側に屋根の付いた木製の休憩所があります。ここには曲里の松並木の石碑と長崎街道を紹介した簡単な掲示板があり、歩き疲れたらここで一息つくことができます。

曲里の松並木、休憩所
それからさらに50mぐらい歩くと、左の松林の中にひときは大きい松の木が立っています。これが江戸時代から残る松の木ですね。現在では2本しか残されていないそうですよ。

写真左から2本目の松木が江戸時代から残る松の木
時代の流れの中で、少しずつ忘れ去られていく歴史遺産、博物館や歴史資料館に行けば写真等で見ることはできますが、自然に残る残照を見ながら歩くという場所は少なくなっています。
黒崎を訪れた際は是非一度訪れていただきたい場所のひとつです。
黒崎宿「岡田宮」は当時のパワースポットだった!

黒崎岡田宮参道入り口
さて、曲里の松並木を見た後は歴史を少し下って、幕末の「黒崎宿」の話をさせていただきます。
曲里の松並木から山手通りを東へ300mほど歩くと近郊で有名な「岡田宮」が鎮座しています。
文久3年(1863)の「八月十八日の政変」で尊攘派公卿三条実美らは京の都を追放され、長州へと向かいました。
倒幕を目指すかたわら復権を目的とした「禁門の変」にも失敗し、逆に「朝敵」の烙印を押されました。
それでも、福岡藩筑前勤皇党の仲介で、三条らは太宰府天満宮に移転しての再起を図ったわけです。
その旅の途中、長州(現山口市)から太宰府天満宮に移動する途中に立ち寄ったのが、この岡田宮でした。

黒崎岡田宮境内
さて、『岡田宮略記』を見ると、この神社の創建は古く、神武天皇の時代までさかのぼることが出来ます。
あくまでも伝承ですが、「神武天皇が東征の旅の途中に立ち寄ったのが機縁。」とされていますが、三条実美としても、神武天皇にならい、東征し倒幕という野望があったかもしれません。
迫りくる危機感と苦渋の選択をした三条たちは、願いを込めてこの歌を詠み、祭神である神武天皇に祈願したのでしょう。

三条実美が岡田宮を参拝した折に奉納した歌とされる歌碑
少し傾斜のある石段を登ると、神門に至る石段手前右手に石碑があります。これは尊攘派公卿「三条実美」が詠んだといわれている詩碑です。
玉ちはふ神し照らせば世の中の 人のまごころかくれやはする
元治2年(1865)1月17日の早朝、三条実美が岡田宮を参拝した折に奉納した歌とされています。
さて、長崎街道黒崎宿が現代の黒崎の街中をどのように通っていたかを探すために、迷いながら1時間ほどうろうろとしてみました。
「長崎街道」は国道3号線黒崎駅付近から、現在のアーケード街(カムズ名店街)を通り、山手通り手前の「下一通り」を通り「西溝口跡」まで繋がっていたみたいですね。
そこから曲里の松並木へと続いており、道路の幅は他の宿場町と比べても狭かったと聞いています。
当時は、黒崎宿に来ると必ずどの旅人もこの岡田宮に立ち寄り、旅の安全を祈願したといいます。
古き時代からこの岡田宮は、地元の方によって厚く信仰され、守られています。石段をのぼり神門をくぐり、境内に入ると緑の木々に囲まれた社殿が姿を現します。
街の中の一角にあるとは思えない風景が目の前に広がり、訪れた人の心を安らかにしてくれる神社です。
三条実美ゆかりの地「桜屋跡」
岡田宮を後にして山手通りを八幡東区方面に300mぐらい歩くと西神原町の交差点があります。そこを左に曲がり黒崎中央小学校を右手に見ながら国道3号線を目指します。
この通りの名前は「宿場通り」、旧長崎街道から接続する当時の歓楽街があったところで、現在でもこの通りの左側には黒崎地区の歓楽街が広がっています。
さて国道3号線の歩道橋を渡り、国道沿いを八幡東区方面に約100mぐらい歩くと藤田二丁目の信号があります。
この交差点の道を挟んで反対側の角に、北九州では名の知られている老舗のパン屋さん、「シロヤ」があります。よかったら立ち寄ってくださいね。

マンション入り口に設置されている「桜屋跡地」の石碑
その交差点の左側に大きなマンションが建っていますが、ここの場所が「桜屋跡」です。マンション入り口の左側に「桜屋跡地、長崎街道筑前黒崎宿」と書いた石碑が立っているのでわかるはずです。
では、「桜屋」とは何なのか、ですが、黒崎宿で有名だった格式の高い旅館でした。創業は文化5年(1808)で別名「さつま屋」と呼ばれていました。
その名の通り、薩摩藩の定宿として知られていて、幕末には長州・土佐の勤王の志士たちも宿泊したといいます。
街道筋の旅館は情報収集の拠点でもありましたが、薩摩藩の「桜屋」が情勢分析の重要な位置を占めていたのかもしれません。
城下町小倉を望む黒崎宿は、幕末の動乱の中で、各勤王の志士たちの重要拠点になっていたことは知られていますが、その重要拠点となっていたのはこの「桜屋」だったのでしょう。
この桜屋は一般の旅籠としても繁盛していたみたいですが、時代の移り変わりの中で、鉄道が開通し、街道ではなく、道路として使われるようになると宿泊者も激減し、廃業に追い込まれたといいます。
そしてもうひとつ、このマンションをJR鹿児島本線の踏切方面に向かうと、踏切手前の道路の左側に石碑が立っています。
歴史を少し戻すと、三条実美らは現在の洞海湾の一番奥である黒崎湊に上陸しました。現在では工業団地の一角になっていて、訪れる人はいませんが、この緑地の中に「五卿上陸地碑」が建っています。
ここは黒崎宿の港として江戸時代中期ごろから栄えた港で、元治2年(1865)1月15日に長州を追われれた三条らは、陸行ではなく、小さな船でこの港に上陸しました。
そして三条実美は港に近い桜屋を訪ね、当時の主人である古海東四郎と歌の交換をしました。
九重の春にもたれるうくひすは世のことをのみなけきこそなれ
桜屋の主人は筑前黒崎に第一歩を記した心情を訪ねています。そのとき返した歌が上記であり、この歌が刻まれている石碑が、踏切脇にひっそりと立っているわけです。
三条らが黒崎に上陸したときに、中岡慎太郎・土方久元など、土佐藩をはじめとする多くの従者がいたといいます。
この石碑に書かれている歌の意味は、「朝廷に仕えられない身としては、ただ、世の中を嘆いて見ているしかない」、三条は追われる身として不安でしかたなかったのでしょう。
そういう姿を見た桜屋の主人は、三条を励ますため宿から近い「岡田宮」参拝を勧めました。それが上記に記したように三条実美の岡田宮参拝に繋がったわけですね。
長崎オランダ商館医シーボルトが江戸へ出向くとき、この黒崎宿を文政9年(1826)1月15日に通過しています。
その記録はシーボルトが記録として残した『江戸参府紀行』に「黒崎(kurosaki」と記録されています。
記録上はこの文字しか記録されていませんが、シーボルトがこの桜屋に立ち寄ったかは不明です。実際にはもう少し黒崎宿のことを書いているかと思いましたが、残念ながらこれ以上の資料は見つかりませんでした。

コムシティー1階、バスターミナル奥に設置されている「黒崎歴史ふれあい館」入り口
何か桜屋についてもう少し資料がないかと考え、黒崎駅に戻り、隣接する「コム・シティー」を訪れました。
この施設の中には「八幡西区役所」が入っていますが、1階の「黒崎歴史ふれあい館」に展示されている中に、桜屋に掲げられていた看板や当時のパネル写真があると聞き訪ねてみましたが、すでに展示は終わりそれらしき資料はみつかりませんでした。残念ですね。
桜屋は風格ある宿だったと聞いています。また、隠し部屋も備えていて、当時の秘密拠点だったこと想像させます。
維新の動乱の中で栄えた「筑前黒崎宿」、近代史の好きな方なら是非一度訪れてくださいね。
遠賀川のほとりに栄えた「筑前木屋瀬宿」

遠賀川
黒崎から木屋瀬まで車で約30分、ルートとしてはいくつもの道路がありますが、今回は遠賀川の景色を見ながら走りたいという気持ちでルートを選びました。
国道3号線を遠賀郡水巻町まで走り、遠賀川の手前から河川敷沿いを走る県道73号線へと入り右手に遠賀川の景色を眺めながら八幡西区木屋瀬を目指します。
水巻町付近は遠賀川の河口付近ですから川幅も広く、周りには高い建物もなく遠賀の田園地帯の景色を一望しながら走れますね。
現代に再現された「筑前木屋瀬宿」
国道3号線から入ること約10分、中間市市役所前を過ぎて世界産業遺産のひとつである「遠賀川水源地ポンプ室」が左手にあります。
そこを通りすぎて5分ほど走ると九州自動車道のけた下をくぐり少し走ると、道路の真ん中に大きな木(大銀杏)が立っています。

長崎街道木屋瀬宿記念館駐車場
そこを過ぎると右側に「長崎街道木屋瀬宿記念館駐車場」入り口があります。河川敷沿いですね。駐車場は無料、約20台ほど駐車できます。

木屋瀬宿駐車場下にある「大名井戸」
駐車場の奥に入り口があるので、そこから階段を下りて裏口から入るようになっています。階段を降りると右手に小さく「大名井戸」と書いていたので行ってみました。
建屋の裏側にあるので通り過ぎてしまいがちですが、当時使っていた井戸だということで、ひっそりと展示されています。
さて、建屋の裏口から入っていくので、少し迷ってしまいますが、小さく通路案内板が表示されているので、その通り歩いて行くと木屋瀬宿記念館の広場に出ていきます。

長崎街道木屋瀬宿記念館内
奥には「こやのせ座」と休憩所があり、右手に「みちの郷土資料館」が設置されています。ここは本陣跡だったということで、ここから広がる現代に再現された木屋瀬宿が一望できますね。

街並みが再現されている「木屋瀬宿」
漆喰で塗り固められた白い壁、焦げ茶色にくすんだ板戸、吹き抜けをもつ玄関口の広い土間が、江戸時代の面影を映し出していますね。
この道路幅は当時と変わらないそうです。当時から街道幅は広く取られていたみたいで、筑前六宿の中でも一番広い街道筋だったことがわかります。

街道は本陣跡の前で「く」の字にカーブしている。
江戸時代、木屋瀬宿は長崎街道と赤間道の分岐点ある宿場町でした。「く」の字に曲がる街道に沿った南北1キロの町には、代官所や本陣、人馬継所などともに15軒ほどの旅籠があり、シーボルトや伊能忠敬らが泊まった記録が残されています。
この木屋瀬宿の歴史と景観を町づくりに生かそうという運動は、平成元年ごろから始まったそうです。
そのきっかけとなったのは、宿場入り口の「西溝口跡」の石垣遺構が自動車事故で壊され、これを保存しようとしたのが始まりと聞いています。
それが文化財保護だけではなく、文化を残そうという声が住民の間で広がったといいます。
北九州市はこうした住民の声を受けて、歴史的建造物の改築に対する費用補助を始めました。
実際には昭和40年代にも文化財を保存しようと動きがありました。その時に市議を中心地して街に残る文化財を集め、郷土資料館を建てたわけですね。

木屋瀬宿歩道に埋め込まれている指標
木屋瀬宿を歩いているとわかりますが、歩道に指標が埋め込まれています。もちろん当時のものではありませんが、探してみてくださいね。
必見! 木屋瀬宿みちの郷土資料館

木屋瀬宿「みちの郷土史料館」
さて、長崎街道を主体とする専門の資料館というのが北九州市には見当たりません。他の展示資料の付属として掲示されているケースが多く、なかなか深く見聞することはできませんでした。
その悩みをある程度解消できる施設が木屋瀬宿「みちの郷土史料館」にはあったんですね。ここに来たら必ず寄ってほしい所です。
●みちの郷土史料館 基本情報
住所 北九州市八幡西区木屋瀬三丁目16番26号
TEL 093-619-1149
開館時間 9:00~17:30(入館は17:00まで)
入館料 一般240円 高校生120円 小・中学生60円(30人以上の団体割引あり)
※現在はコロナ対策のために入り口を入ると検温と自身の基本情報を記入しなくてはなりません。

みちの郷土資料館、木屋瀬宿ジオラマ
館内にはボランティアの方がいて、丁寧に木屋瀬宿のことを説明してくれます。まず最初に目を引くのが当時の木屋瀬宿を再現したジオラマが展示されています。
これを見ると木屋瀬宿は思ったよりも大きな宿馬場町だったことがわかります。最盛期には千余棟の建物が立ち並び、旅籠だけでも20軒以上があったとされています。
入り口のすぐ横には「企画展示室」がありますが、ここには長崎街道の貴重な資料が展示されています。(写真撮影禁止区域でした。)
とくに目に着いたのは、長崎街道の起点であった「常盤橋」の絵図やシーボルトやツンベルグが書き残した「江戸参府」、もちろんレプリカですが、こういった資料は他ではめったに見ることはありません。

みちの郷土資料館、1階常設展示室
さて、順路を奥へと進んでいくと、常設展示室があります。ここには木屋瀬宿で使われていた道具や生活用品が展示されています。
2階に上がると、当時のお茶屋やお店の看板、台帳等が展示されており、当時の反映した木屋瀬宿の面影をしのぶことができます。
1時間ぐらいかけてゆっくり見させていただきましたが、貴重な資料に出会えたことに感謝しています。
宿場町を現代によみがえらせた「木屋瀬宿」、他の遺構とはちがい当時の反映した宿場の様子が想像できました。
長崎街道、北九州の街道筋を歩くのまとめ
今から20年ぐらい前の話になりますが、私はこの「木屋瀬宿」を訪れています。当時はできたばかりの観光地だったのですが、話題を呼び一時期多くの観光客が訪れていました。
この当時「こやのせ茶屋」という試験的なお店があって、そこのコーヒーがとてもおいしかった記憶があります。
名付けて「夢とロマンの長崎珈琲街道(カフェロード)」と題して売り出していました。
江戸時代、出島に持ち込まれたコーヒーを、シーボルトらが街道を通じて全国に広めたいという逸話にちなんだものだそうです。
実際に出島に出入りする日本人がコーヒーに親しんでいたのは確かです。スウェーデン人医師ツンベルグの『日本紀行』には「通訳がコーヒーの味を知っている」という記述があります。
残念ながら今回はこういったものを味わうことはできませんでしたが、黒崎宿や木屋瀬宿は長崎街道をもっと前面にだして、観光資源の一環として大事に育てていってもらいたと感じました。
薄れゆく歴史的な街道物語、これからの旅はこういったスタイルでの観光もいいかもしれませんね。
またご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。
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